使い捨ての関係?!

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日常生活における使い捨て

家の中を見渡してみると、毎日使っているものや本当に必要なものは限られていると思います。

まだ使えるものを捨ててしまったり、新商品が出たらとりあえず購入したり、使う予定の無いものを購入したりと。

自分のお金をどう使うかはそれぞれの自由なので、「無駄遣いするな!」と言うつもりはございません。ただ、こういった消費・使い捨て社会での我々の行動を、人間関係に置き換えたときに、どういったことが起こり得るでしょうか。

スマホやアプリによって、昔に比べたらかなり出会いの機会は増えました。これにより、人間関係の希薄化に繋がっていると言われることもあります。しかし、今と比べて出会いの機会が少なかった時代を過ごしてきた人たちが必ずしも密な人付き合いを好んだというわけでもないでしょう。

出会い機会が多いか少ないかが問題なのではなく、その出会いの先に何を求めているかが重要なのかもしれません。大半の方は、出来れば好きな人と末永く幸せに暮らしたいと思っているのではないでしょうか。いくら好きになっても相手は他人です。自分の思うようになってくれないから面白いのもでもある、相手のことを理解できるようになるから居心地も良くなる、良いこともあれば悪いこともある。些細なことから大きな困難までもを一緒に乗り越えて行くことで、お互いにとって居心地の良い関係が築かれていくのではないでしょうか。

我々が無意識にしてしまっているかもしれない人との関わりにおける使い捨てについて下記の”Disposable relationships?” という記事を参考に一度考えてみてはいかがでしょうか?

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使い捨ての関係?!

我々は、使い捨ての時代に生きている。トースターが壊れる・・・新しいものを買う。Tシャツが破ける・・・それを取り替える。大抵、実際、今あるものを修理するより新しいものを買った方が安いのだから仕方ないのかもしれない。我々の物的財産に関して言えば、”得やすいものは失いやすい”といったことになるのも不思議ではない。

しかし、この無責任な姿勢は、我々の人との関わり方にも及ぶであろうか。

恐らくこの姿勢は、現代版の”隣の芝は青い”といった概念であろう。何か良いもの(素敵な人と素敵な関係)を見せられた時、我々の中にはより良いもの(より素敵な人との更に素敵な関係)を探し続ける必要性を感じる人もいる。

それは必ずしもテクノロジーや今生きている時代だけの責任ではないが、これらによって助長されたのかもしれない。

今日、オンラインで簡単に会いたい人に出会えるということは、これまで経験できなかったことである。携帯を取りだして、徒歩圏内の人のリストをスクロールできることを考えると、誰かに会えるかもしれないと期待して飲み屋に行くことは、非効率のように思われる。さらに、彼らを一瞬にして目にすることができ(少なくとも彼らの一部を)、彼らが何を望み、自分が探しているのもと一致するかを探し出すことも出来るのである。

継続的に”向こう側”を見続けるこの欲は、必ずしも壊れた関係のサインというわけではない。我々の使い捨てで簡単に処理できてしまう社会は、壊れていないものでさえ取り替えるように我々は強いられてしまっているのである。この前使っていた携帯は壊れていたのか?それとも、最新版のデザインが気に入ったというだけでアップグレーをしたのか?テクノロジーの進化は猛烈なスピードで進化している。そのため、新しい製品は次々とリリースされているのである。愛の進化は別である。

愛は永遠で、願わくば永久である。それには異なる手段を取る必要がある。時に愛は傷つき、壊れていると感じることがある。しかし、寄り添い、現状の改善を試みて、より良くするという価値は重要なものである。もし、我々が困難を経験するという理由だけで単純に人や関係を排除して行くと、我々は成長、発展、至福の幸せの大きなチャンスを逃してしまう。

いかがであろうか?我々は、使い捨ての物を扱うことと同じ方法で自分たちの関係を扱っていいないであろうか?

関連記事:Disposable relationships?
http://www.samesame.com.au/features/12249/Disposable-relationships

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